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フェニックス病棟

フェニックス病棟

 少年の頃、宮崎県立病院に入院していた。6・7ヶ月はいたような気がする。当時では先進的な完全看護を目的として、患者の身内の負担を軽減し、高度な医療を施すことの出来る場所でもあった。

  特に小児科の子供達の回復を願って名付けられた病棟名だったようだ。

 完全看護の必要性から、重症者の多い病棟でもあった。

各部屋は小児科ということで、看護室から見渡せる硝子張りで、腰から上は天井まで透明硝子だった。何かあると、この硝子の壁にカーテンが引き回されて一晩中明かりが灯される。そうしてカーテンが引き開けられた時、そこには空になったベッドがあり、何事も無かったかのような透明な空間が南面の窓からの光を受けて、見通しの良い長蛇の病室の連なりの中にポッカリと不在の意味を見せていた。

 私の病室から見下ろせる南側には広い庭があり、芝生の植えられた庭で、クリスマスの時だったか、どこかの学生達が楽器の演奏をしてくれたことがあった。学生達はどこからかイスを持ち運び、きちんと整列すると、先生のタクトに合わせて演奏を開始した。そうして何曲かを演奏すると一礼した。

遠くでパチパチと拍手が鳴り、私も少しだけ拍手したことを思い出す。その庭の一隅には小さな霊安所があった。

 フェニックス病棟では、通常、部屋は2人部屋で、一方の容態が悪くなると1人部屋となった。

 私と同室にH君という少年がいた。

小学4年生とのことだったが、幼いころから心臓が悪いとのことで、小学1年生程の体格だった。毬栗(いがぐり)頭の、黒目勝の目はパッチリと愛らしく、長い睫毛(まつげ)が印象的だった。思い出すのは、大儀そうにベッドの手スリにつかまって「今、何食べているの」と問いかけて来ることがある。思えば、H君は病院食ばかりで「甘い物」も欲しい年頃。回復期にあり、中学3年生だった私が絶えず湧き上がる食欲にまかせ、バリバリ、ポリポリとやるものだから、気になってしょうがなかったにちがいない。

 あまり分けて上げると、看護師さんに注意されるので困った。

 そのH君のことを心から労わる看護師さんがいて、良く面倒を見ておられた。夜勤の折、彼女は時間があるとH君の体を拭いてあげ、温かな「手当て」を施し、今思えば何よりの治療を行っておられたような気がする。

 年を経て思い返せば、こうした様々なことが何か深いご縁の中で紡(つむ)ぎ出されていたような、そうして、まるで千手観音様の手を借りて、彼女がお世話をされていたように思えて来る。

 若く美しかった彼女が、薄明るい常夜灯の下で、お世話している姿が、ぼんやりと見えていたのだが、まるで温かな光に包まれた奇跡を目の当たりにしたかのように思えてくるのは私が年を取ったからなのだろうか。

 或る日、私は部屋を移された。一晩中その部屋はカーテンを引かれて隠された。そうして、何度か会ったことのある、西米良から出て来られた、小柄な母親と幼い妹さんが、挨拶に来られ「お世話になりました。」と告げられた。

翌朝、庭を見下ろすと、霊安所が見えた。

H君は、一晩そこに安置されていた。よく見ると、一人の少女が霊安所の前でケンケンをして遊んでいた。それはH君の幼い妹の姿だった。遠い故里の西米良まで一緒に帰るために

時を過ごしているのだった。

 かくして、これが私の原点の一つとなった。

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